傷ついたのは誰?

 というタイトルの小説が筒井康隆の作にある。

 この小説はいわゆる不条理ものだが、世の中結構、ある人に深く心が傷つけられたと感じたときでも、実際にはその相手の方が先に僕のせいで深く傷ついたと感じていたりする。

 こういう気まずい状態が嫌で、僕はなるたけこんがらがらないような人間関係を望んでいるのだが、どうにも生来鈍臭い性格なので、相手が気にしているとは気づかず怒りのスィッチを押してしまうことが多い。

 鈍い性格というのはこういうところで損をする。人間というのは多かれ少なかれ、近くにいる人間に我慢ならないところがあって、それでもできるだけ口に出すまい、出すまいとして生きているのが普通だ。それは誰だって同じなのだが、あるときそれが爆発して先制攻撃された場合、僕はすぐには的確に言い返すことができない。

 僕に圧倒的に非があるのならそれは仕方がない、と思う。きっとそういう場合が多いのだろう。だが、相手が誤解を根拠に僕を責めている場合、これは苦しい。

 日本の喧嘩観というのはこれもさっぱりしているように見えて著しく不公平で、争いはその場限り、引きずるのは男らしくないとかひつこいとかいわれる。圧倒的に先制攻撃有利なのである。あなた、いきなり殴られて、その後すぐ握手を求められ「これでお互い恨みっこなしだ」で手打ち、というので我慢できますか?

 自分に心当たりがないのに相手がこれは喧嘩だと決め付けて向かってくる場合、勝負はその人の中ではあっという間につく。それはそうだ。いきなりふっかけられてまともに返せるぐらいならそもそも不意打ちなど食らわない。

 だが、その人が僕がなにかをした、と思い込んで向かってくるとき、その根拠を一緒に持ってくるのならそれはそれで冷静にそれは誤解だ、とかごめん、気づかなかったけどやっちゃったよ、とか本当の意味での解決に向けて話し合いができる。だが、相手が主観や記憶を頼りにしている場合、それを本当に僕がやったのか、ということを証明することは無理だし、僕だって記憶や主観を頼りに判断するしかないのだから、相手がいくら動かぬ証拠を突きつけた、と思っていても、問題は実は根本的にはまったく解決していない。喧嘩を吹っかけた人間はせいせいしても、それでは事態は一歩も前に進まないのである。

 冷静になって考えて見ると相手の主張のおかしな点にいくつも気づき、どうやらそれは誤解だと思って、その点を明らかにしようとして後日同じ話題を持ち出しても、なんだ、気持ちよく赦してやったのにと煙たがられるか、悪くすれば消えかけていた火に油を注ぐ破目になる。不毛な言い争いの繰り返し。

 僕はいい加減な男なので過去何度もそれで失敗をやらかしたことがあり、普段は偉そうにしているが突然責められると、つい「ひょっとしてやっちまったかな?」と思ってしまう。不利である。だが、本当は有利不利、勝ち負けということが問題なのではない。友達づきあいや夫婦や家族ならともかく、世の中にははっきりさせておかなければならないことがある。ここでいう世の中というのは自然界の法則とか哲理とかそういうでっかい問題ではなく、ある物事を前に進める、ということが求められる場においてだ。そこでは俺がやったから、とか君がやったから、とかが問題なのではなく、実際にはモノの動きがどうなっているのか、という即物的な事実なのだ。私情や馴れ合いで済む問題ではない。

 人間というのは常にスケープゴート探しをしながら生きているようなものだと思う。それはどんなに偉い人でも<いい人>でも変わりはない。僕だって人一倍、何があってもあいつのせいだ、あれのせいだと思い、実際に口に出しながら生きている。だが、火浦功というグータラなSF作家が「お前が悪い!」という作品を書いていたが、お前が悪い、というのがお仕事なのに公論になっていて、悪いと認めさせて、広い心で迎えてやる、というお遊戯ばっかりやってるちっともお仕事らしくないお仕事の現場というのが結構あるようだ。僕はいい加減な男で、ひち面倒臭いのが嫌なので、お仕事はお仕事で、さっさと帰りたい。甲斐のない犯人探しは嫌いなのだ。

 人間は相寄って生くるもの、などというから、そういう馴れが苦手な僕が一番周囲を傷つけているのかも知れない。いや、きっとそうなのだろう。僕には夕日の浜で殴り合った後で(実際には一方的に殴られて)肩を組まれて一緒にがっはっはと笑い合える心の柔らかさはない。皮肉でなく、結局はそういうことを真面目にできるひとたちの方が大人でまっとうな人間なのだろう。

 さて、傷ついたのはだれなのか?