とりあえずの呪縛

トミノ節って、意味はわかんなくても耳に残りますよね。凄い優秀なコピーライターだと思う。ただ、本人のその言葉についての解説きいてもなんかしっくりこないんでずっと意味不明なまままんですけどw。

で、本来の意味的にはかすってもいないかもしれないですけど、液晶テレビプラズマテレビの話題とかを見る度に思い出すのがこの「とりあえずの呪縛」という言葉。

どっちも(特に液晶は)、動画には決定的に向いていないにもかかわらず、厚くて重いブラウン管から薄型へという買い替え需要を喚起させるための素材が他になかったため、<とりあえず>採用され、それの使用を前提とした開発に突き進まなければならなかったわけです、テレビ機器業界さんは。その中で苦肉の策としてたくさんの優れた技術が生み出されたのも事実でしょうけど、別にはじめからテレビに液晶なんか採用しようと考えなければそもそもそんな技術開発にコストをかける必要はなかったわけですし、すべて無駄ではもちろんないでしょうけど、なんか<とりあえず>採用するしかなかったような代物にたいして、(技術的に未完成なものを延々売りつけられてきた消費者含め)、えらい犠牲(コスト)を支払わされてきたもんだなぁ、と思うわけです。そういうのも<とりあえずの呪縛>と表現してもいいのではないかしらん。

もちろん、他にも例はあります。個人的によく感じるのが、NHK策定のハイヴィジョンの画面比率。なぜ横長を採用するならおとなしくビスタ・サイズに準拠しとかないのでしょうか。他のジャンルでも自民党にするか民主党にするかとか、色んな<暫定>の規則とか税率とか、パソコンの32BIT環境の呪縛とか、ITバブルとか、サンプリング周波数の44.1Hz系統と48kHz系統の並立とか。

はじめから理想的な選択肢が理想的な時期に登場することなんて普通まずありませんし、とりあえず、という選択を強いられる場面ばかりなのはわかります。ですが、適切な時期に適切なコストを投入すれば、何とか健全な方向性に軌道修正できたのではないかと思えることが多いのも事実です。テレビの場合だって、SEDなんかは数年前にうまくすれば実用化できていた可能性は高かったように思えますし、サンプリング周波数だってまだCD黎明期の段階に、やろうと思えば48kHz系統に統一はできたのではないかと思うのです。ハイヴィジョンの画面比率の規格なんて50年以上前に定められたもので、今になってそれがようやく一般化しようかというところに来たレヴェルの話なんですから、いくらでも見直しを行う余裕はあったはず。よくいえば信念でしょうけど、未だに根拠不明な受信料収入にしがみつくNHKのやることなんで単なる思考停止としか思えません(テレビ受信装置を持っている全世帯に強制力を発揮する契約なら、せめてチューナー付テレビ購入(あるいは受信装置付機器)の時点で説明を受けた上でNHKとの契約書にサイン必須にするべきでしょう。そもそも今のようなかたちの契約は普通ありえないと思う。生活に必須なサーヴィスである電気ガス水道だってちゃんと上のような手順は踏みます)。