遊び人のなにが悪い!?

ニート、引きこもりというと諸悪の根源のようにいわれるようになって久しいが、外に出て働かず、他人と接さず生きることの何が悪いのか、と思う。

 今の社会は一歩も外に出なくても経済活動に参加できる。

 ネットトレーディングは家にずっといる人間のほうがずっと有利だし、一夏自動車工場ででも働くか、親が元金を出してやったっていい、すぐに資本は用意できる。 親も、大学に4年間通わせることを思えば、百万<融資>しても安い投資ではないか?

 中には実際にそうやって成功してるひとを見て、寂しい人生だ、社会の中で人と接して働かないと本当の社会人じゃない、などという輩もいるが、それこそ余計なお世話だ。満員電車に揺られて、理不尽な人間関係に耐え、毎月貯蓄もできず、子供の養育に悩まされ、どれだけ幸せなのか。幸せとはただ大多数に入ることで簡単に得られるものではなく、別の次元の問題だ。恋人や配偶者がいようがいまいが、不満な人間は不満だし、そうでない人間もいる。

 要は、人と接したくなければ極力接しなくていい仕事で稼げるように周囲が職能を身につける道へ仕向けてやればいいのだし、本当に人と接するのが好きならばそういう仕事に向かえばいい。無理をして合わない生き方を選択しなければ居心地が悪いような社会通念など不要なものだ。生き方に正解はない。それを一方はいいが一方は駄目ときめつけるのは多くの非サラリーマンに支えられて成り立っている社会の現実を無視し、天に唾する行為だし、士農工商カーストの考え方だ。

 大体ニートとか引きこもりと呼ばれている人間は、現代の病などではなく、昔からある生き方のひとつに過ぎない。東大を出て後は一生何もせず暮らしたというひともいれば、世捨て人なんてのもいる。

 デンマークに、ある姉弟が湖に浮かぶ島の薔薇のベッドに眠っていたら一生が過ぎ去ってしまった、という浦島太郎みたいな話がある。これを酔生夢死、人生の楽しみを自分だけの夢の世界にいるうちにつかみそこねることの風刺と簡単に意味づけるべきだろうか?薔薇のベッドで夢見ているとき、姉弟は幸せでなかったといえるだろうか?竜宮城は?

 これでは、熊は冬眠するから人生の半分を不意にしているとか、若いころに楽しんだ人間はトシとってそれができなくなったら不幸だといってるのと同じだ。そういうあんたは結局人生の楽しみを悉く逃してきたからそういうのだろう、といいたくなる。誰にとっても平等に、人生は過ぎ去る夢か幻に過ぎない。

 部屋を出るな。自分の領分で、自分のできることをすればいいではないか。そこはモラトリアムの踊り場でもなく、行き詰まりでもなく、借り物の人生でもない。自分が主役の自分の時間だ。人生の目的とは、自らの生を他の誰のものでもなく自らのものとすることではないだろうか。