「政治は弱い人間の最後の最後の逃げ場」か?

政治や政治家へ強くコミットする人間は、社会的地位の得られない、安定しない人間、社会的落伍者である、というような見方が根強くあります。スポーツや国、様々な運動(環境運動や消費者運動)の場合もそうですが、こういった直接自らの能力に関係ない場面にしか自らをアイデンティファイできない<下層>の市民を想定した、インテリ層の侮蔑の込もった見方でしょう。

元来「政治は弱い人間の最後の最後の逃げ場である」というような言葉はないようで、18世紀英国の文学者Samuel Johnsonが辞書"A Dictionary of the English Language"の中で書いた、'Patriotism is the last refuge of a scoundrel.(愛国心は悪党の最後の駆け込み寺である)' という言葉から派生したもののように思われます。

特に日本のような<中流社会>の場合、大多数の国民は自らをの実際に置かれた生活水準よりも高い層に属するものとして認識してきましたから、生活の様々な場面でこのような階級的差別意識を刷り込まれ、自らを下層と見做されないためにあえて政治への積極的関心を持とうとせず、時には政治的な手段による生活の向上を望むひとびとを「自助努力をしようとしない駄目人間」と軽蔑し、自らそのような感情を表に出すことも軽蔑します。そして、自らのおかれた状況にはただ忍耐を美徳とします。

このようなひとびとは常に批判的立場から「政治を任せられる政党(政治家)がいない」という<積極的>投票棄権のような態度を美しいものとしてきました。現在でも、直接的に政治に関わりがないと(考えられる)職業の高い(と見做される)地位、職業にある人間の政治的な発言は歓迎されれない傾向があります。

これは、階級意識を利用して発言力の高い市民の政治への監視能力を減じる古典的手法といえます(一方で同時に愛国心を吹聴し、自らを<下層>と感じるひとびとに誤った誇りを与え利用することもまた古典的手法です)。

しかし、日本ほどこのような市民の政治的発言力の骨抜き化が成功してきた例は欧米各国にも例がなく、結局これが長期的な国民生活展望不在、すなわち政治不在の国家を形成してきた最大の要因ではないでしょうか。