自作短編小説「アブダクション」(2)

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鮎川は不安がる学級の女友達数人と連れ立って帰ることになったということで浦上と僕だけが残った。考試期間中は部室に無用に入ってはいけない決まりになっていたが、僕たちは放送室に入って僕が持ってきたCDを流しながら今日のことを話した。浦上は霊感が強く、中学のとき狐に憑かれた武士の霊に追いかけられた話をした。そのうちに下校時間になった。下校の音楽を流しアナウンスするのは僕たちの部の仕事だったが、その日は先に帰った鮎川が当番だったことを思い出し、浦上が代わりに下校放送をした。彼はなかなかアナウンスがうまかった。僕は一応放送作家志望ということになっており(放送作家なんて職業があることは部に入ってはじめて知った)、不得手なアナウンスは大概免除してもらっていた。

日暮れは遅くなっていたが図書館前は光が余り差し込まず薄暗かった。さっきの浦上の話を思い出した。職員室にはいつもより多くひとが残っている様子だった。放送を聞いて顧問の黒縁眼鏡の国語教師があわてたように出てきて、「まだ帰っていなかったの」。

「下校放送を代わったんです」「今日はすぐ帰るよう連絡があったでしょう」。

混乱が深まってきているようだった。顧問が開いた扉の向こうから、「さっき連絡があって、6組の岸川も帰ってきてないって・・・・」。彼女が後ろ手にぴしゃりと閉めた。

入学当初、彼女と僕は授業の合間よくこれまで読んだ小説の話などをしたものだ。生徒会の世話役のひとりだった関係から、ほかになり手のない放送部の顧問を押し付けられてやってきた後は―――放送部は部活というよりも生徒会の関係先だった―――、どうして私がやらされるのだろうと露骨に出て、大会のエントリーも彼女が忘れてうまくいかないというようなことも起きたので、部の皆から「何も知らないで、お嬢様だからって」揶揄され、かれらに感化された僕も彼女との間が険悪になっていった。女教師は大学時代短歌の雑誌で何度も入選したと話していた。10年近く教師をしていたが、未だ教師である自分に馴染めないようだった。

学校を出て、暗くなり始めた道を下りながらずっと、僕は浦上に鮎川も消えたらどうするのかと口にしそうだったが、彼が時折見せる10歳も年上みたいな表情のせいでいいだせなかった。浦上と鮎川は2週間後一緒に消えた。

不意に空腹を覚え、食堂はまだ営業できているのだろうか。急いで見てくれば、3時限目までに間に合うはずだと階段を駆け下りかけたが、7組の麻野のことを思い出してその踵を返した。昨日はまだ消えていなかったはずだ。校舎の反対の理系側には常からほとんど行く機会はないが、幽霊部員のまま冬に放送部を退部していた麻野は残った僕の最後の話し相手といっていい。

麻野は隠れて煙草を吸うが、よくない連中とつるんでいるわけでもないようで、そもそもここではつるむ相手が捜し当てられない手のタイプのようだった。時折学校をサボったり午後からしか出てこないこともあったが停学を受ける様子もなく、教師までが奴には無関心を決め込んでいるようで、見えない人間の惨めさがあった。

僕は直接麻野の名前を呼んだことがなかったので―――奴と会うときは常に浦上も一緒だった。そんな僕と奴は直接の知り合いといえるのだろうか?急に腹の下が締め付けられる緊張が襲ってきた。―――教室を覗き込んだとき、奴にどう呼びかければいいのかわからず固まった。7組にはもう4、5人しか生徒が残っていないが、珍しく麻野は女生徒のひとりと話し込んでいて僕に気付かない。

「良原くん」。僕を呼んだのは名前を知らないもうひとりの女生徒だった。どうして彼女が僕を知っているのか顔を見てもまったく思い出せない。部の女子のうち誰かの知り合いだろうか。急に自分が僕以上に淋しいはずの麻原に慰めを得に来たのだとわかり、僕自身とその僕にさえ顔を覚えられていないこの地味な短髪の女生徒が哀れになった。

しようことなく無遠慮にネームプレートを覗き込むと「えーと、こんにちは、藤原さん」。やはり誰だかわからない。

「もうどのクラスも、先生こないみたいよ。帰っちゃわない?」

色白で、ぺっちゃりとした鼻の穴がこっちを向いていて、細い目は外よりの藤原さんは、まるで顔に似合わないことをいう。

まだ教室にひとりぽつねんといるはずの菊池綾音に後ろ髪を引かれるような思いを残しながら、僕は藤原さんに従った。そうかもう全部終わりなんだな。

階段のところまできたとき文系教室の方から何かざわめきが聞こえてきた。「なんだろう」。

「ちょっと見てくるよ」「帰らないの?」

「先に何をしてるか見てくる」「そう」。

藤原さんは表情を変えずに――― 一瞬、赤い唇がぎゅっと引き結んだ気がした―――階下へさっさと下りていった。

僕はその背中が見えなくなるのを、ひどいズルをしてしまったような気持ちで見送った後、声のするほうへ向かった。ざわめきはさっき覗いた3組からだった。

「帰ってきたんだ」「本当にお前なのか」「どこいってたんだ」「どこから帰ってきたんだ」。、教卓の前の急遽片付けられたらしい空間を、おそらく他の学級のものも含む生徒たちが取り囲み、囲いの中では何人かがぼんやりと椅子に座っている。

そこには数学教師の高松もいた。グレーの髪はややぱさついている。いつもの白衣は着ておらず青縞のワイシャツとネクタイだけの姿。他の3人は男子生徒で、知った顔ではないがさっきまでは確かにいなかった奴らのようだ。

「解放されたんだ」「みんな帰ってくる」「何かされたんじゃないのか」「本当にお前らなのか?」

その言葉に居合わせた者たちが氷の壁に鼻からぶつかった馴鹿のような顔をして見合わす。

誰かがふと口にした解放という言葉からの連想にすぎないのか。しかし。すりかえ、なりすまし、暗示、脳部分切除手術、博士のディナー、生い繁るキノコ・・・・。

侵食。

僕はその光景を見ていることができなくなり、向きを変えずそそくさと教室を出ようとする。背中が誰かの胸板に当たり、その主が僕の肩を掴む。知っている気配。

大きな窓から見える校庭には、消えていた生徒たち教師たちが四方八方からこの校舎に向かって集まってきている。

(了)