日々の断片 (かけら)

 行ったことのある場所やもの、会ったひとや動物の記憶を後から思い出して書いていると、位置関係やなんかが辻褄が合わなくなってくる。

 場所ならそこに行ってみて確かめてみればいいのだが、大概の場合は遠方でそうも行かない場合が多い。それに景観も、短期間でも大きく変わってたりする。

 そういう時、写真を撮って整理しておく癖をつければ役に立つのかも知れないが、僕の場合、旅行したときの写真なんかを見返しても、鮮明にその場面のことを思い出す手段としては案外有効な手段にはならないようだ。

 思い出さない、というわけではないが、詰まっていたホースが突然溢れ出すように、どっとそのときの感情が蘇ってくる、という度合いは、その時聴いていた印象的な音楽や、匂い、漫画なんかから得られる方がずっと鮮烈で深い。

 カメラのレンズを通してみた風景や光景は、その場にいるのに自分が参加していないようなのだ。カメラを構えた途端、対象物を早くも思い出にしてしまっているような申し訳ない気分になる。

 日記をつけたり、というのも同じで、その日あった出来事やひとを、無理に自分の理解の範疇に押し込めて矮小化してしまっているような気がする。

 大体が僕はどんな楽しいことや気持ちいいことでも、それを体験しながら「早く終わらないかな~」と心のどこかで思っているようなところがいつもあって、なんだか罰当たりな人間のような後ろめたさを覚えてばかりいる。どこか一歩引いて観察者の立場で偉ぶろうとするひねこびた意識が染み付いているようだ。カメラは、僕のそういうときの平べったいレンズじみた目つきを彷彿とさせるために、自己嫌悪を呼び起こすのかも知れない。

 椎名林檎「ギブス」。

 「あなたは すぐに 写真を撮りたがる あたしは いつも それを嫌がるの
 だって写真になっちゃえば あたしが古くなるじゃない」

 写真を撮ろうとカメラに目を近づけるたびに、この一節が聴こえてきて、対象に責められているような気分になる。発想が安易ですね~。

 気の弱い僕は、もっと

「嫌なんか、おらっ、どうなんや、えっ。もっとよう顔見せてみい、おら、もっと撮って、っていってみんかい」

 というような押しの強いプロ根性を身に付けねば覚束ないと思う今日この頃(なんか違う)。