ご破算で願いましては・・・・(人類終末論とゾンビ)

1950年代から60年代にかけて、人類終末論ブームというべき潮流が主にSFの世界で盛り上がりを見せた。東西冷戦の緊張の高まり、大国の核開発競争がもたらした破滅への危機感から、主に核戦争による人類の終局を描くものが多かったようだ。人間が常に持ち続けているぼんやりとした終末への不安(期待)に、時に冷たい確信がもたらされることがある。洪水や地震、火山噴火、長い冬、黒死病・・・・。だが、核最終戦争のイメージほど確信的にご破算へのイメージを描いて見せたものはこれ以前にはあるまい。

この分野の先駆けをなしたのはおそらく1959年に映画化もされた小説『渚にて』Nevil Shute Norway"On the Beach"(1957)ではないかと思われる。僕は2000年にリメイクされたテレビ映画版(邦題『エンド・オブ・ザ・ワールド』)でしか知らないが、第3次世界大戦で北半球が全滅し、メルボルンでじりじりと迫り来る放射能による死の影に覆われていく人々の姿が描かれる。この時点では人類は静かな死を受け入れ、淡々と無に帰っていく。

だが、やがてこのジャンルに人類の死滅だけでなく、必然的に破滅に向かう過程で起こる、パニック、狂騒、ドタバタに目を向けたものが登場してくる。1969年の筒井康隆の小説、『霊長類 南へ』はその最も早いケースのひとつであろう(映画『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』Stanley Kubrick"Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb"(1964)もドタバタであるが、実際に核ミサイルが発射される前の段階のことを描いたものである)。我先に逃げ出し、事故を起こし、略奪し、絶望から奇行に走り、殺し合い、尊厳を喪っていく人間たち。誰だって一皮剥けば糞尿の塊に過ぎないという透徹した人間認識を持つ筒井康隆一流の醒めた筆致で、容赦なく人々の醜態痴態が曝け出されていく。

極限状況の恐慌、パニックは営々と書き継がれてきた人類最大の主題のひとつである。だが、人間が自らの手で自らの首を絞め、その種を絶滅させる、20世紀が考案したこの状況(シチュエーション)ほど喜劇的でニヒリスティックなものは前世紀までの作家たちには想像もつかなかったはずだ。

暴徒と化し互いの人間性と生命を相食む群集、誰もが徹底的なエゴイストと化さざるを得ない極限の心理。当時、やがて登場するゾンビ映画は明らかにこれらの要素をよりファンタジックな死者の行進の光景の中に受け継いでいる。80年代、すべてがグローバリズム化するマスコミュニケーション、資本主義の波の中に飲み込まれ行き、確かな手触りに麻痺し、ケバケバしくドきつい色彩に溢れた薄っぺらな遊園地のようなイメージに愛撫されるひとびとにとって、ゾンビ映画も確かにカラフルな夢、ファンタジーであったに違いない。だが、ゾンビの中に、人間が持つ最大の愚かさと喜劇性は確実に根を張り、脈打っているのである。