余の辞書に屈服という文字はない(それは乱丁です)

 今朝、自転車に乗って駅に向かう途上、JRの踏み切りを通り過ぎようとしたときのことです。

 この踏み切りは、駅の傍にあり、そこに電車が停車していたり、鈍行列車が隣の駅くらいの地点にいるときから下りるいわゆる開かずの踏み切りで、朝のラッシュ時はひどいときは5分くらい下りていて、上がったと思ったらすぐにまた下りてくるので、殆ど常に渋滞を引き起こしています。この踏切を越えないと利用している地元の私鉄の駅に行けないのですが、まだ線路をパスする地下道が出来ていません。僕のよく利用するこの道は一車線と3分の1分くらいの広さしかないのに片側通行でなく、歩道も途切れ途切れで不完全。踏み切り待ちの車の車体やサイドミラーなどが歩道にもせり出してきていることが多く、また、自転車も歩行者を避けるスペースがありません。

 今日も、僕が通りかかったときは遮断機が上がったばかりのようで、まだ停車中の車が多く、僕は窮屈な中を自転車から降りずになんとか通り抜けようとしていましたが、遂に何台目かで避けきれず、すり抜けざまにサイドミラーにハンドルを握った手でパンチしてしまいました。

 中のひとを確かめていなかったので、一瞬ヤン車とかヤクザの車で、言いがかりをつけられたらどう切り替えそう、と、考えながら、止まるべきか躊躇してしまったのですが、後ろからその車に乗った男性に止まるよう要求されたために、踏み切りを越えたところで自転車を停めました。

 その男性は走っている車ならともかく、停まっている車にぶつけておいて一言の謝罪もなく走り去ろうとするとは何事か、と僕を問い詰めました。

 男性に事態をこれ以上の騒ぎに発展させようとする意思はないようですし、こういう場合、素直に心から謝罪すればいいのでしょうが)、ヤクザの連想が浮かんだときに考えた、「こういう場合は歩道にはみ出している車が悪い、という方が法的には通るのではないか」という思いがどうしても頭から離れず、よっぽど口に出そうかと思いましたが、かつて「激昂した相手には死んだ振りが一番賢いのよ」と喧嘩の後に言われたのを思い出しw、なんとか謝罪を口にはしたので、解放してくれました。

 それでも、釈然としない思いは残ります。何もその車が悪いのに、というのではありません。その車もなにも意地悪で歩道ギリギリに停まっていたのではなく、物理的に他にしようがなかったのでしょう。法的にはどうなのかわかりませんが、こっちが弱者で正当だとしても、図体がでかくて思うように動けない車に気を遣って自転車から降りて脇を通り抜ける、あるいは車が動いてスペースが出来るのを待つ、というのがあるべき気遣いのようにも思えますが、朝は時間がなく、そう悠長なこともしていられない、というのが、本音です。結局早く地下道を作らない、道路を拡張しない行政が、車社会が、配慮し合わない人間の性が、と、責任を押し付けようとすれば対象は限りなく広がってしまいそうです。

 本当はすぐにこんなことを考えず、心から相手に悪い、同情する気持ちになるのが善良さというもので、僕もそういう気持ちのいい人間でありたいとは思うのですが、やはり根が天邪鬼で反抗的な性格で、なかなかそうはなれません。

 しかし、生きるって不合理なことばっかりですねぇ。何かいい納得の方法って、ないものでしょうか?