自作短篇小説「アブダクション」(1)

イメージ 1
とうとう、学級で残っている生徒は菊池綾音と僕だけになってしまった。

きれいすぎる緑―――チョークの粉の波模様がない黒板を眺めていると、何だかミュージックビデオの中にいるみたいな気分になってくる。二人きりになっても、僕は教室左側の窓から2列目の1番前の席、菊池綾音は廊下側の端の列の後ろから2番目の席という、4月のクラス替え以来の席順で座っている。だから今でも彼女は振り返って見ないと何をしているのかわからないし、何を思っているのかは余計想像がつかない。2-1クラスの皆がどんどん減っていき、先生もいなくなっていっても、教室に来ている以上最後の一人になるまで、前と同じように勉強をしているふりだけでもしていなければならないような気がしていた。残ったのが秀才とされていた菊池ならなおさらだ。僕は不意に担任でこの時間の古典を教えていた山下の興奮するとなおさら広がる大きな鼻の穴と、ドングリまなこ、汗でテカる額を振りながら定規と大声で重要な部分を指して僕たちに復唱させる姿を黒板の前に思い出し、懐かしいようで喉仏がキュッとなった。漢文の練習帳を繰ってみると、これが始まる前、授業中に眠気でうつらうつらしながら山下の目を盗んで端に描いた落書きが目に入る。山下がいなくなったのはいつぐらいだったか。まだ学級に半分は残っていたはずだ。

こうしていると菊池と二人だけ居残りをさせられているような錯覚に陥る。更に連想は彼女とフジュン異性交遊をして罰を待っているところまで進んで、いたたまれなくなってしまう。菊池綾音は小柄だが美人といっても差し支えない女生徒だった。三年生になっても同じ学級になり、その秋ごろ、どういうきっかけだったか初めて話らしい話をした。その内容は覚えていないが、どんな音楽が好きなのか、小説が好きなのか、テレビ番組の好みも知らず、話題が見つからなかったにもかかわらず(まさにそういった好みについて噛み合わないまま尋ねていったのかも知れない)、彼女の表情に不快げな色はなく、二たび付き合っている二人を想像して有頂天になりそうだった記憶がある。だがその後再び言葉らしい言葉を交わすこともなく、ひとり遠くの大学に進んだ僕は、彼女がどこの大学に行ったのかも覚えていないし、その後再び見たこともない。

だが、その6月の朝、10時15分過ぎには、朝補習の時間から数えて呆然と時間を数えてもう3時間にもなろうかとしており、そして時間割を見れば7限目の終了までの残りが無限に近いのにうんざりして―――そのうんざりは級友だちが消えるようになってからのものでもなかったが―――僕は次の授業の時間になったら彼女に話しかけようと初めて決心した。

二時限目終了を知らせる鐘が鳴り始め(誰が鳴らしていたのだろう?機械が勝手に動いていたのか)、廊下に幽かなざわめきが聞こえてきた。僕はそそくさと席を立ち、教室を出て他の学級の様子を覗きながらトイレの方向に歩いた。2-1学級は校舎2階の端にあり、トイレと階段に辿り着くまでには、11学級あるうちの文系6クラスの教室の前を通り過ぎることになる。この頃になると、10人以上残っている学級はなくなっていたが、8人前後は残ったところもあれば、まったく人気の感じられない教室もあった。数日前、以前所属していた部活の顔見知りがいた2-3に休み時間に入り込んだとき、眼鏡をかけてお下げにし額と頬がにきびだらけの女生徒が男女5、6人を取り巻きにして、

私たち、夏休みに林間研修に行くはずだったでしょう、噂なんだけど、本当はその途中のバスが谷から転落する事故を起こして、みんな意識不明の重体に陥ったんだって。つまり、今ここにいる私たちは昏睡の夢の中なのよ。目覚めたものから姿を消していって、今ここに残っているのはまだ昏睡状態にあるひとたちなんだって。

この奇妙な状況で、さらに手持ち無沙汰でもあり、生徒たちはこのオカルティックな推測にも、半ば信じたいような顔つきだったが、それにしては全校生徒が消えていってるじゃないか。大体バスは分乗のはずだ。今ここにいるうちの誰かは、本人じゃなく、昏睡の誰かの夢に過ぎないのか、じゃああんたが夢じゃない保証もないわけだ、女生徒をせせら笑ってまた教室の方々に散り散りになっていった。3組教室を覗き込んでみると、あの女生徒の姿はない。

それは約1ヶ月前、5月の連休の後からはじまっていた。その頃僕は2年で学級が分かれても部活では一緒だった浦上と一緒の帰りの坂道、自転車を押し歩きながらそれぞれの周囲の情報を交換した。はじめは変質者との噂のあるでっぷりとした若い英語教師だった。僕の学級の担当ではないが、浦上は奴に教わっていたので、その悪い評判の内容も、英語教師が消えた日のことも、彼は詳しく知っていた。

前年度の終わりごろに、英語教師は駐車場に止めた自分の車の中でせんずりをしているところを何人かの女生徒たちに見つかって問題になり、それ以来ノイローゼが進行していた様子だった。校長のコネがあるという噂で、しばらくして復帰したが、授業中もますます振る舞いがおかしくなり、英語教師のヒステリックな喚き声が1組の教室まで聞こえてきたこともあった。英語教師が消えた朝、浦上の学級の野球部の生徒が朝錬上がりに英語教師があの車の中でぼんやりしているのを目撃しており、またやってるのかな懲りない奴やな。そんな話題が教室で交わされていたという。2時限目、浦上の4組は英語教師の担当の時間だったが、10分過ぎ15分過ぎても彼はあらわれなかった。浦上は職員室に知らせに行き、教師の間でもそれまでその日の午前の英語教師の行動や行方を把握していなかったことを知った。それではあの後、いよいよノイローゼの極みで逃げたか、あるいは。ということで手の空いている教師たちと一緒になって浦上は探しにいったが、駐車場には車が停められたままになっており英語教師の姿はその中にはなかった。

その失踪の噂が全校に広まるより先に、すでに2人め、3人めが消えていた。いずれも1年の女生徒だったため、あるいは英語教師がさらったのではないかと疑いが生じ警察を呼ぶべきだという声もあったが、とりあえずは内部で穏便に調査ということになったようだ。だが、昼休みの後、素行の余りよくない2年生の男子生徒が数人帰ってきていないことがわかり、ようやくこれは怨恨の連続殺人もありうると強い声がでてしぶしぶ警察に通報がなされ、英語教師と接触がありそうな学級の生徒たちに面談などが行われた。だが、生徒たちを動揺させないようにのお定まりでこれも極力外部に漏れないよう行われたので、僕が何かが起こっていることを知ったの自体その日の帰りがけだった。

考試前で部活休み期間に入ることになり、放課後僕と浦上と鮎川で図書室の前で勉強するつもりだった。去年の冬から浦上と鮎川は公然と付き合いはじめていて、僕は邪魔者になっていたが、その時は先に僕たちが約束していたところに理系の鮎川が割り込んできたかたちだった。中学のときとは違い図書室には僕の目を惹くような本は余り見つけられなかったので、図書委員の目つきや部屋の明かりも僕によそよそしくなりはじめていて、余り中にはよりつかなかった。担任の山下はその学期の中ごろ職員室で僕を前にお前は入学時に比べてよくない方向に向かっているといった。以前親しんだ習慣のなにもかもが急速に色あせつつあったが、新しく覚えはじめたものには僕自身堕落の香りをかいでいた。図書室前にしつらえられた大きな石のオブジェ様のテーブルとそれに向かうためのベンチは部室代わりでもある放送室の間近で、部の皆はよくそこに集まっていたが、そういうわけで僕はその場所が余り好きでなかった。そこはピロティーの覆いの部分に当り、そこからは服装検査のときに生徒たちが並ばされた集会スペースが見下ろせた。